HISTORY

渋沢翁が人生の拠点とした東京北区

提供:渋沢史料館

西暦年 和暦年 年齢 主な出来事
1840 天保11年 0 2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれる。
1864 元治元年 24 一橋慶喜に仕える。
1867 慶応3年 27 徳川昭武に従ってフランスへ出立(パリ万博使節団)
1868 明治元年 28 明治維新によりフランスより帰国、静岡で慶喜に面会。
1869 明治2年 29 明治政府に仕える。
1873 明治6年 33 抄紙会社設立(後に王子製紙株式会社・取締役会長)
1877 明治10年 37 王子西ヶ原に別荘を建て始める。
1879 明治12年 39 別荘に初めて賓客を招く(第18代米国大統領グラント将軍)
1901 明治34年 61 飛鳥山邸を本邸とする。
1931 昭和6年 91 11月11日永眠。

LOVE LIVE LEAD 〜渋沢翁の拠点となった東京北区〜

変わることを恐れなかったその⼈⽣。

渋沢翁は1840年、現在の埼⽟県深⾕市の農家に⽣まれました。 家業の畑作を⼿伝う⼀⽅、幼い頃から「論語」などを学びます。 「尊王攘夷」思想の影響を受けた渋沢翁は、⾼崎城を乗っ取り、横浜外国人居留地を襲撃する計画を⽴てましたが、中⽌して京都へ向かいます。 郷⾥を離れた渋沢翁は⼀橋慶喜に仕えることになり実⼒を発揮し、次第に認められていきます。 27歳の時パリの万国博覧会を⾒学するほか、欧州諸国の実情を⾒聞し、 先進諸国の社会の内情に広く通ずることができました。 明治維新となり欧州から帰国した渋沢翁は「商法会所」を静岡に設⽴、 その後明治政府に招かれ民部⼤蔵省の⼀員として新しい国づくりに深く関わります。 1873年に⼤蔵省を辞した後、渋沢翁は⼀⺠間経済⼈として活動しました。 第⼀国⽴銀⾏を拠点に株式会社組織による企業の創設・育成に⼒を⼊れ、また「道徳経済合⼀説」を説き続け、⽣涯に約500もの企業に関わった他、約600の教育機関・社会公共事業の⽀援並びに⺠間外交に尽⼒しました。 世界の動きを⼀早く読み取り、それに合わせるように⽴場を変えていき、 ⽇本を導いて1931年91歳でその⽣涯を閉じました。

その⼈⽣の拠点となった地は、東京都北区でした。


 

LOVE / 渋沢翁が愛した北区 

〜王⼦製紙の⽴ち上げ〜

明治5年、渋沢翁は製紙事業を官営で⾏うことを建議し、抄紙会社の設⽴願書を提出して設⽴が認可されました。 ⼯場の敷地選定に際しては、渋沢翁自身も各地を調査したあと⼯場⽤⽔の⾯から王⼦に決定しました。 王⼦地域と渋沢翁との関係はまさに同社設⽴から始まり、渋沢翁は同社を近代的な機械⼯場の模範として広く知らしめたいと考えていたそうです。

LIVE / 渋沢翁が住んだ北区

〜本邸を構えた⾶⿃⼭〜

明治初年の渋沢翁の考え⽅に「職住接近」というものがありました。王⼦製紙⼯場を構え、その⼯場を⾒晴らすために37歳の時に⾶⿃⼭の地に4,000坪の⼟地を購⼊し、別荘として構えました。 そして61歳で⾶⿃⼭に本邸を構え、⽣涯をこの地で過ごしました。

LEAD / 時代を導く拠点とした北区

〜渋沢翁が導いた地域〜

渋沢翁の⾶⿃⼭邸は単なる私邸にとどまらず、多くの賓客を迎える接待の場としても利⽤されました。最初の海外からの来客はグラント将軍でした。以降、渋沢翁は⾶⿃⼭邸に国の内外や分野を問わず多くの賓客を迎え、重要な会議の場、また⺠間外交の場として活用し新たな時代を「始動」させていく拠点となっていたのが、まさにこの北区という地でした。

渋沢翁は⽇本の近代経済社会の発展に尽⼒していく中で、王⼦・滝野川地域施設への助⾔や寄付なども⾏い、地域の発展を⼤事にしました。 滝野川町役場庁舎の新築、滝野川警察署、消防、⼩学校など、町⾏政の整備に対して⽀援をしました。また、滝乃川学園、愛の家、北豊島郡教育会、西ヶ原⻘年会など地域の社会教育・⽂化事業にも関わり、その他に西ヶ原互親会など地域住⺠による⾃治組織の発展の援助等も行い、北区を新たな時代へ導いていきました。

※当サイトの渋沢栄一翁の肖像画、及び一部の写真は渋沢史料館所蔵のものとなります。